仏壇ってなんだろう

仏壇ってなんだろう?なんて
時折ふと思ったりします。

昔から仏壇というものは各家庭に必ずあるもので、
私たちにとっては大変身近な存在でした。

家族が食事をする前にはまず仏壇にごはんを供え、
また、頂き物はまず仏壇に供えてからお下がりをもらうというように、
常に仏壇(仏様)を中心にして生活していたものです。

そのようにして、いつもご先祖が
私たちを見守ってくれているという意識が、
昔は現代よりもずっと強かったものですが、
現代は核家庭化が進み、
仏壇があるという日常を体験しない人がいるというのが現実です。

特に若い世代が親と離れ、
独立して世帯を構えることが多くなった核家族化が進む現代では、
仏壇というものに関心が薄くなってしまったことから、
ついには「仏壇って必要なのか?」という声さえ聞こえ始めています。

仏壇とは何のために存在しているのか?

私たちは、亡くなった先祖や親などに対して手を合わせながら、
日々無事に過ごせることへ感謝し、
また時には懺悔の気持ちを伝えることもあります。

人は何か困難に直面したり、大切な人を亡くした時、
何かに向かって手を合わせたいと思います。
その対象がまさに仏壇であり、
仏壇とは家の中にある寺院そのものなのです。

毎日お寺に行くのは大変ですが、
家庭に仏壇を置いてお参りするという行為は、
仏様に毎日お参りできるということが
本来の意味であるような気がします。

そういったことから考えてみれば、
いくら仏壇を置いたところで、
お参りしなければなにもなりませんから、
恐らく「仏壇は必要なのか?」と考えること自体が
「信仰心」というものに大きく影響されるものだと思います。

確かに仏壇や位牌そのものは、あくまでも「モノ」であり、
そこに故人の御霊が宿っていると考えることは合理的ではありません。
しかし、それらに敬意を表し大切に思うことで、
故人と自分たちの命のつながりを感じることができる
「架け橋」であり「寄りどころ」と考えれば、
仏壇の果たす役割を理解出来るような気がします。

仏壇の前に座ると必ず姿勢が正され、
自然に背筋が伸びたきちんとした態度をとります。
それは、仏壇に対して感謝と敬意の気持ちを表す
場だと考えているからではないでしょうか。

合掌の姿ほど美しいものはありません。
もし、親が日常生活で仏壇の前で手を合わせていれば、
たとえ難しいことはわからなくても、
子供はこれを見ながら何かを感じ取ってくれる筈です。

最愛の人

作家、水上勉さんについてのエピソードに
こんなお話がありました。

生まれつき足がご不自由だったお嬢さんに、
8歳の時、奥さんの骨盤を削って移植するという
手術をなさったとのことです。

手術の後、まだ麻酔の覚めないあいだ、
酸素マスクのわが子をじっと見守っていると
お嬢さんが誰かの名前を呼んでいるのです。

自分か、もしくは奥さんの名前だろうと
耳を澄まして聞いてみると・・・

なんと、それは自分たちではなく
小さい時から娘に連れ添ってくれていた
お手伝いさんの名前だったのでした。

「愛というものは、なんと厳しいものだろう」と
水上さんは絶句したそうです。

お嬢さんとお手伝いさんの間には、
親が我が身を削っても、なお及ばないほどの
深い「愛」があったに違いない。

深い闇の淵をさまよう娘が、
自分たち両親ではなく、その名前を呼ぶほどに
お手伝いさんは、いったいどれだけの愛情を
我が子に注いでくれたのだろう?

水上さんはお手伝いさんに感謝するとともに、
それ以来、「愛」という言葉を
軽々しく使わなくなったと書いています。

我が子が、もし死の淵において
無意識のうちに誰かの名前を呼ぶとすれば
それはいったい誰なのでしょうか?

それはきっと子供にとって「最愛の人」なのでしょう。

私は果たして名前を呼ばれるに値する愛情を
我が子に注いでいるのだろうか?

これからの課題になりそうな気がした
今朝のオヤジなのでした。

恩送り

私がお付合いさせていただく先輩諸兄は
有り難いことに「男前」の方々ばかりで、

還暦も過ぎたオヤジになったというのに、
いまだに食事などでご一緒した際には
私が奢られる立場になってしまいます。

「たまには奢らせて下さい」とお願いすると、
いつも決まって
「アンタは私じゃなく、下の人たちに奢ってあげなさい」と
言って下さいます。

いつかそんな諸兄に恩返しがしたいものだと
常々思ってはいるのですが、
最近になって、こんな言葉を知りました。

誰かから受けた恩を
その方にお返しするのが「恩返し」ですが、

その恩を第三者に渡していくのを
「恩送り」と言うのだそうです。

誰かからいただいた恩を、次の誰かに送る。

とても美しいことだと感じます。

いただいた恩を、次の誰かにつなぐ時

きっと、自分に下さった方の恩に感謝しながら
渡しているからではないでしょうか。

「恩」を「感謝」に変えて次の世代に送ること。

誰もが心がけるべきことなんだろうと思う
今朝のオヤジです。

何故、終活なのか

テレビや雑誌、そして巷で開催される様々な終活関連のセミナー、
また、インターネット上には情報が溢れており、
今や終活に関する知識は簡単に手に入れることが出来ます。

「終活」というものを皆さんに知っていただくことにおいては
大変素晴らしいことであり、
私もその情報提供者の一員として、
年間100回を超える講演会やらセミナーを通して
全国の皆さんにお伝えしている身ではありながら、

矛盾を承知の上で申し上げるならば、
「終活など本当に必要なのか?」と、思うことがあるのです。

世の中は時代とともに刻々と変化し、
家族のあり方もそれに会わせて様変わりしておりますが、
今年64歳になる私などが幼い頃には
三世代同居の家庭というものは何処にでもある風景でした。

祖父母・父母・子供たちという三世代の人間が
共に生活する家庭においては、終活などという意識すら無く、

順番通りにいけば、お爺ちゃん、お婆ちゃん・・・と、
一人づつこの世を去って行く過程で、
残された家族はその悲しみを受け入れながらも
葬儀から片付け、そして供養までの一連の流れを
代々続けてきたものでした。

子供たちは葬式や火葬、お墓参りなど
親の後ろ姿を見ながら、そして肌で感じながら育ったため、
やがてその役割が自分に回って来た時には、
周囲の助言をいただきながらも
無事に務めを果たして来れたものです。

ところが、時代は変わり
三世代同居など到底不可能といえる時代と、
親世代の価値観も少しずつ変化した現代においては
親子の別居はいつの間にか当たり前の感覚となり、

子供と離れて生活する親にとっては、
「子供たちに迷惑を掛け無いように」と考え、
あるいは、子供を持たない夫婦にとっても
「自分たちの始末は自分たちでやっておかねば」という

ある意味、自分の生き方ばかりか「死に方」を
考えなければならない時代になったことが
終活という「方法論」が生まれた背景ではないのかと思います。

子供に、あるいは家族に迷惑をかけないようにという気持ち、
言葉を変えれば、家族に対する「配慮」や「心遣い」は
ある程度必要なことだと思いますが、

余りにも終活というものこだわりすぎて
何から何まで準備周到な終り方を考えるのは考えものであり、
少しは残った家族に、少しはやることを残しておくのも
配慮の一つかも?なんて思います。

終活で本当に大切なことは、
「家族に迷惑をかけないように・・・」ということよりも、

残された者たちが迷惑だとも思わないような
親子関係や人間関係を築いておくことが
重要ではないのか・・・と、私は思うのです。

空き家をタダで貸すという選択

少子高齢化が叫ばれる一方で、
新築の住宅がどんどん増えているのが日本の現状であり、
必然的に、都市部ですら一等地を除いては
住宅が余りはじめているのが現実です。

地方であれば尚更、今後空き家は加速度的に増加するため、
住まなくなった住宅をどうするのか?
それをそのまま維持するべきか?貸す方法を考えるべきか?
それとも損を覚悟してでも売るべきか?

実際のところ
「もはや迷っている場合ではない」のが現実問題です。

資産価値の無くなった家をそのままにしておけば
自分が死んだあと、困るのは子供たちであり、
「自分も住まない」しかし「貸せない」「売れない」という
三重苦の家を親から相続してしまえば、
維持管理費用と税金を払い続ける羽目になるのです。

自宅という不動産が「資産」だった時代はすでに終わり、
これからは郊外を中心に多くの不動産が『負債』になっていく。
不要になる空き家を持っている人は、
まずその認識を持ち、現実と向き合うことが重要です。

では、売ろうとしても買い手が付かないという場合は
いったいどうすればいいのか?
そんな悩みを持つ皆さんが日増しに増えているのですが、

その場合の最後の手段の一つとして考えられるのが、
本当にタダで貸してしまうという方法です。

こんなことを言えば「そんなもったいないことは・・・」
と思われる方も多いだろうとは承知していますが、
近年施行された「空き家対策特別措置法」で、
誰も住まなくなった空き家が老朽化し「特定空き家」となれば、
固定資産税が跳ね上がるんです。

誰も住まない空き家に誰かに住むことで、
家の管理者が存在するため、前述の「特定空き家」には該当せず、
固定資産税は従来どおり更地の6分の1で済む、ということで
家賃をタダで貸してもメリットがある場合もあるということを
覚えておくのも良いかもしれませんね。

家の片付けは大変

「生前整理」は、もちろんモノの整理ということが中心ですが、
もう一つの側面として、自分がこの世を去った後で
モノの整理や相続問題で家族が困らないように、
身辺においての整理をしておくという意味合いを持っています。

「生前整理」と似た言葉で「遺品整理」がありますが、
生前整理がその本人が生きている間に、自分がするのか、
本人の死後、家族によって行われる遺品整理では、
少々意味合いが異なります。

今日は、自分の手で片付けや整理をすることが
どうして必要なことなのか?ということを、
少しお話ししてみたいと思います。

 

皆さんが今どのような状況で生活していらっしゃるのか?

お子さんたちと同居なさる方・・・
お子さんたちと離れて生活なさる方・・・
配偶者とお二人で暮らす方・・・
お一人暮らしの方・・・
それぞれに状況は異なることとは思いますが、

あなたが亡くなった後、遺族があなたの遺品を、
必要なもの、不要なものを分けながら片付けるという作業は
想像を遥かに超えた大変な作業だということを、
まずは認識する必要があります。

私も仕事上、何度も「遺品整理」の現場に
立ち会わせていただいたことがありますが、
それはもう大変な作業であることを痛感させられました。

何も片付けをしないで亡くなった場合、
その家を片付けるという作業に一週間以上掛かるものです。
近くに暮らす遺族であれば問題ないのでしょうが、
遠距離で暮らす遺族であった場合は大変な作業となります。

一軒の家にある大量の「モノ」をすべて処分しようとした場合、
平均的な家庭でおよそ2トントラックで6台から8台もの
家具や調度品、また残すものやゴミとして捨てるべきものなど、
大量のモノを家の中に溜め込んでいたことに驚かされます。

家の中のモノを全部処分するということを前提で考えれば
専門業者の方に「全部処分して下さい」とお願いすれば、
お金は掛かるものの簡単なことなのですが・・・
いきなり業者の方に丸投げするにはいかない
さまざまな「事情」があるのです。

何故かというと、家の中には大切なものや貴重品が存在しており、
たとえば、タンス預金などの「現金」や、
銀行等の「通帳」「証券類」「権利証」、
「骨董品」や「貴金属」などの金目のもの、
「アルバム」や「手紙」「日記」等の
残しておくべき大切なものがあるため、
まずは遺族が家の中をくまなく調べ尽くしてからでなければ
業者にお願いするという運びにならないのです。

遺品整理をなさるというご遺族にお付き合いしたところ、
亡くなったお母様の自宅を片付けるということで
遠方からのご兄弟も集まって作業が進む中、

途中で古いアルバムやお母様が書かれていた日記などを見つけ、
ご家族が懐かしい想い出話を始められる度に作業が中断し、
一向に片付けが進まないという状況を見るにつけ

恐らく、一般的な家の遺品整理の場合、
残すものと捨てるものを仕分けするという作業だけでも、
かなりの日数は掛かるだろうと想像するとともに、
遠方からの遺族がこの作業をするためには
時間と労力、そして経済的にも
かなりの負担を強いられることは間違いありません。

ですから、皆さんが家族のために
「生前整理」をしておこうと思われる際には、
まずはモノの絶対数を減らす(捨てる)ことと、
残された遺族にとって「絶対に必要なもの」と
「必要かも知れないもの」を、
すぐに分かるようにまとめておくことが何よりも重要であり、
それが、ひいては遺族にとって、有り難いことだということを
認識していただきたいと思うのです。

 

罠にはまる

他人の態度や言動が妙に気になったり、
マナーやモラルに対してイライラしたり
怒ったりすることがありませんか?

私の知人には、精神的なことやマナーについて
とても詳しく、厳しい方が沢山いらっしゃいますし、
ひょっとしたら、私もその一人なのかもしれませんが、

「相手の立場になって、言動を慎まなければならない」

「不平不満を口にしてはならない」

「陰口は言ってはならない」

「常に感謝の心を持たなければならない」等々、

そんな「・・・なければならない」の積み重ねが、
きっと、他人への不満に拍車をかけるのでしょう。

ところが、おかしなもので
マナーやらモラルなどを学んだり、

精神世界や自己啓発本などを読めば読むほどに、
なおさら人に対してのイライラがつのるばかりです。

本来、それらの勉強というものは
「人に対して寛容になるため」の学びである筈が、

知らず知らずの内に、巧妙な罠にはまり、
自分が学んだことを、人に強要してしまうといった
間違った方向に向かう危険性があるんですね。

人は完璧になどなれる筈がありませんから、
常に欠点や弱さがつきまとうものです。

だからこそ、学ぶということは
その弱点に「気付く」ことなのだと思うのです。

「知る」ということは自分のためであり、
決して他人を変えるためのものでも
強要するものではない筈です。

他人に対して気になる部分を見る時には、
イライラさせる相手に照準を定めるのではなく、

自分自身の内にある「それを許せない」とする
心の未熟さに気付き、それを「治める」ことが、
本来もっとも必要なことなのではないのか?

なんて・・・

偉そうなことを書きながらも、
自分自身がまだまだ未熟なオヤジです。

大切な人の想い出の中に

60歳を過ぎた頃から
「人生とは、素敵な想い出づくりの日々なのかなぁ?」と、
つくづく思うようになりました。

自分の人生を振り返って、
何の素敵な想い出も残っていないのなら、
かなり虚しいだろうなあ・・・って想像するから、
死ぬまでに沢山のいい想い出を作ろうと思っています。

そして、そう思うようになってみたら
毎日いちばん多くの時間を共にしているカミサンって、
想い出作りのために一番協力してくれてる存在なんだって
妙にありがたく思えてきて・・・

ヨーシ!! 
オレもおまえの最高の想い出づくりに協力してやろう!!なんて、
つまらないことで怒らなくなったんですよね。

いい想い出をつくりたいと願いながら、ふと考えてみたら・・・
想い出づくりとは、誰かの中に自分を残しておくことも、
そのひとつじゃないか?って、最近思うようになりました。

お恥ずかしい話で恐縮ですが、64歳のこの歳で、
六歳になる娘がおります。

20歳離れた家内と、今年小学校へ入学した子供のそばに
あと何年一緒に居てやれることだろう・・・?と思ったら、
家内と子供の素敵な想い出の中に生き続ける自分を
しっかり残してやりたいと思うようになりました。

これまで、冗談で人生を過ごしてきたようなものですから、
「死ぬまで生きてりゃいいじゃねえか」なんて笑いながら、
健康のことなどまったく無頓着だった男が・・・

「家族のために長生きせねば!」などと思うようになったことに
我ながら苦笑いしている今日この頃です。