神仏は大きな親

日本の神道には「共働共食」という言葉があります。

常に神様と共に働き、神様と共に食事をする。
働いている、食べているのは自分一人のようだけれど、
本当は神様があなたと共にいて下さるということ。

仏様も同じではないかと思うんです。
私たちが毎日生活をする中で、
嬉しいこと、辛いこと、腹が立つこと、悲しいこと・・・
そのすべてを、仏様・ご先祖様が
そばで見守って下さっているということが分かれば、
私たちは勇気が出ます、元気が出るんです。

そして、何よりもそばに居て下さるということに
私たちは感謝できるんです。

四国の札所巡り、お遍路さんを皆さんご存知ですよね。

お遍路さんの白い装束には、
背中に「同行二人」と書かれています。

昔は、札所を巡るためには
すべて足で巡っていましたから大変な苦行でした。

自分一人で歩んでいるようだけれど、
実はお遍路には常に弘法大師様が共に歩んでいて下さるのだと。
だから自分とお大師様の「同行二人」と書かれているのです。

キリスト教においても同じことがあるんです。

キリスト教の詩編の中に「フットプリント」
日本語で言うと「足跡」という詩があります。

神を信じるある男性が、その苦悩を綴った詩なんですが、

主よ、かつて私があなたに従うと決心した時、
あなたはどんな時も私とともに
歩んでくださると約束されたではありませんか。
でも、私の人生で最も苦しかった時、
足元には二つではなく
ひとつの足跡しかありませんでした。
私が最もあなたを必要としていた時、
どうしてあなたは私に居て下さらなかったのですか?

その言葉に主は答えられた。
「私の可愛い子よ、私はあなたを愛しています。
決して見捨てたりはしません。
あなたが試練や苦しみの真っただ中にあった時、
たった一組しか足跡がなかったのは
その時、私があなたを背負って歩いていたからなのです。

もうおわかりですね。

どんな宗教であれ宗派であれ、
神様仏様は常に皆さん一人ひとりのそばで、
共に居て下さるんです。

そんなことあるわけない、ウソだと
それを信じる信じないは皆さんの自由です。

なぜならば、
皆さんがどう思うかという気持ちには一切関係なく、
神様や仏様は「いいんだよ、それで」と
笑って下さっているんです。

皆さんもお子さんがいらっしゃるならば分かる筈ですが、
子供たちが小さい頃には、
なにか自分の要求が満たされなかったり、
叱られたりする度に「お母さんなんて大嫌い!!」って
言われたことがあるでしょう?

じゃあ、「嫌い!!」って言われたからって、
私も嫌い!!って思いましたか・・・?

きっと困りながらも笑ってたでしょ?

そう・・・神様仏様も、いつも笑って
私たちを見て下さっているんですから、
信じるか信じないなんて、どうでも良いくらい

神様や仏様っていうのは、私たちの大きな大きな、
親のような存在だと思えばいいんじゃないでしょうか。

美しい身終いとは

現代社会において、宗教離れはどんどん加速しています。

宗教離れというよりは「信仰」というものが、
急速に薄れて行っていると言ってもいいでしょう。

その原因は何なのか?といえば、
家族の形態が時代とともに
変わって来たせいではないかと思います。

昔、といっても、たった20年30年前には
三世代同居というものが何処の家庭でも一般的でした。

毎日食事の前には仏壇や神棚に、
ご飯やお水をお供えしてから食事をいただいたもので、
私などもよく母親から「これ仏さんにお供えしてちょうだい」と、お手伝いをさせられたものでした。

こうして仏様や神様にお供えして手を合わせること、
そして家族揃ってお墓参りをすることで、
日常生活の中で、自然と「信仰心」というものが
当たり前のように育まれて行ったんです。

ところが、子供たちは今や都市部で生活したり、
親と同じ地域に暮らしていたとしても
それぞれ別の家庭で暮らすという生活形態から、
これまで代々引き継がれて来た神様や仏様に対する
「畏敬の念」というものが失われて行ったんです。

私どもは「終活」という言葉を
「美しい身終い」と呼んでいます。

「身終い」という言葉は辞書で引かれても無い
私どもが勝手に作った造語なんですが、
通常皆さんがご存知の「身支度」という言葉と
同じニュアンスだと思って下さい。

私たちが普段の生活の中で使う言葉では、
「身支度」というよりも「着替える」という言葉を使います。

外へ出掛ける時、買い物や遊びに出掛けたりする時、
そして仕事に出掛ける時など、
私たちは家着から外出用の服に着替えるんですが、

そんなシーンでは、どちらかと言えば
「着替える」という言葉が適当なんです。

ところが、結婚式そしてお葬式に参列する時はどうでしょう?

そんな場合は「着替える」というよりは
「身支度を整える」と言った方が適当な気がしませんか?

では、なぜ「着替える」ではなく
「身支度を整える」と言う方がふさわしいんでしょうか?

それは、お祝い事、そしてお葬式というものには、
神様・仏様がそこにいらっしゃるからです。

結婚式は神様に新郎新婦が永久に添い遂げるという約束を
神様の前で誓う儀式です。
そして、お葬式は亡くなった方をお見送りする儀式です。

私たちは神様、そして仏様という、
私たちに見えない存在の大いなる存在の前に立つ時には
その大きな存在に対する畏敬の念から、
きちんと身を正して相対する覚悟をするんです。

だからこそ、単に外出するための着替えではなく、
「身支度」というものを整えるんです。

私どもの「美しい身終い」とは、
私たちの目に見えない世界に導かれるために
常に心の準備をしながら、

いつお迎えに来ていただいてもいいように
ジタバタせず「ハイ、お待ちしておりました」と
言えるための心構えをしていただきたいとの願いから

「身終い」と呼んでいるんです。

仏壇ってなんだろう

仏壇ってなんだろう?なんて
時折ふと思ったりします。

昔から仏壇というものは各家庭に必ずあるもので、
私たちにとっては大変身近な存在でした。

家族が食事をする前にはまず仏壇にごはんを供え、
また、頂き物はまず仏壇に供えてからお下がりをもらうというように、
常に仏壇(仏様)を中心にして生活していたものです。

そのようにして、いつもご先祖が
私たちを見守ってくれているという意識が、
昔は現代よりもずっと強かったものですが、
現代は核家庭化が進み、
仏壇があるという日常を体験しない人がいるというのが現実です。

特に若い世代が親と離れ、
独立して世帯を構えることが多くなった核家族化が進む現代では、
仏壇というものに関心が薄くなってしまったことから、
ついには「仏壇って必要なのか?」という声さえ聞こえ始めています。

仏壇とは何のために存在しているのか?

私たちは、亡くなった先祖や親などに対して手を合わせながら、
日々無事に過ごせることへ感謝し、
また時には懺悔の気持ちを伝えることもあります。

人は何か困難に直面したり、大切な人を亡くした時、
何かに向かって手を合わせたいと思います。
その対象がまさに仏壇であり、
仏壇とは家の中にある寺院そのものなのです。

毎日お寺に行くのは大変ですが、
家庭に仏壇を置いてお参りするという行為は、
仏様に毎日お参りできるということが
本来の意味であるような気がします。

そういったことから考えてみれば、
いくら仏壇を置いたところで、
お参りしなければなにもなりませんから、
恐らく「仏壇は必要なのか?」と考えること自体が
「信仰心」というものに大きく影響されるものだと思います。

確かに仏壇や位牌そのものは、あくまでも「モノ」であり、
そこに故人の御霊が宿っていると考えることは合理的ではありません。
しかし、それらに敬意を表し大切に思うことで、
故人と自分たちの命のつながりを感じることができる
「架け橋」であり「寄りどころ」と考えれば、
仏壇の果たす役割を理解出来るような気がします。

仏壇の前に座ると必ず姿勢が正され、
自然に背筋が伸びたきちんとした態度をとります。
それは、仏壇に対して感謝と敬意の気持ちを表す
場だと考えているからではないでしょうか。

合掌の姿ほど美しいものはありません。
もし、親が日常生活で仏壇の前で手を合わせていれば、
たとえ難しいことはわからなくても、
子供はこれを見ながら何かを感じ取ってくれる筈です。