罠にはまる

他人の態度や言動が妙に気になったり、
マナーやモラルに対してイライラしたり
怒ったりすることがありませんか?

私の知人には、精神的なことやマナーについて
とても詳しく、厳しい方が沢山いらっしゃいますし、
ひょっとしたら、私もその一人なのかもしれませんが、

「相手の立場になって、言動を慎まなければならない」

「不平不満を口にしてはならない」

「陰口は言ってはならない」

「常に感謝の心を持たなければならない」等々、

そんな「・・・なければならない」の積み重ねが、
きっと、他人への不満に拍車をかけるのでしょう。

ところが、おかしなもので
マナーやらモラルなどを学んだり、

精神世界や自己啓発本などを読めば読むほどに、
なおさら人に対してのイライラがつのるばかりです。

本来、それらの勉強というものは
「人に対して寛容になるため」の学びである筈が、

知らず知らずの内に、巧妙な罠にはまり、
自分が学んだことを、人に強要してしまうといった
間違った方向に向かう危険性があるんですね。

人は完璧になどなれる筈がありませんから、
常に欠点や弱さがつきまとうものです。

だからこそ、学ぶということは
その弱点に「気付く」ことなのだと思うのです。

「知る」ということは自分のためであり、
決して他人を変えるためのものでも
強要するものではない筈です。

他人に対して気になる部分を見る時には、
イライラさせる相手に照準を定めるのではなく、

自分自身の内にある「それを許せない」とする
心の未熟さに気付き、それを「治める」ことが、
本来もっとも必要なことなのではないのか?

なんて・・・

偉そうなことを書きながらも、
自分自身がまだまだ未熟なオヤジです。

大切な人の想い出の中に

60歳を過ぎた頃から
「人生とは、素敵な想い出づくりの日々なのかなぁ?」と、
つくづく思うようになりました。

自分の人生を振り返って、
何の素敵な想い出も残っていないのなら、
かなり虚しいだろうなあ・・・って想像するから、
死ぬまでに沢山のいい想い出を作ろうと思っています。

そして、そう思うようになってみたら
毎日いちばん多くの時間を共にしているカミサンって、
想い出作りのために一番協力してくれてる存在なんだって
妙にありがたく思えてきて・・・

ヨーシ!! 
オレもおまえの最高の想い出づくりに協力してやろう!!なんて、
つまらないことで怒らなくなったんですよね。

いい想い出をつくりたいと願いながら、ふと考えてみたら・・・
想い出づくりとは、誰かの中に自分を残しておくことも、
そのひとつじゃないか?って、最近思うようになりました。

お恥ずかしい話で恐縮ですが、64歳のこの歳で、
六歳になる娘がおります。

20歳離れた家内と、今年小学校へ入学した子供のそばに
あと何年一緒に居てやれることだろう・・・?と思ったら、
家内と子供の素敵な想い出の中に生き続ける自分を
しっかり残してやりたいと思うようになりました。

これまで、冗談で人生を過ごしてきたようなものですから、
「死ぬまで生きてりゃいいじゃねえか」なんて笑いながら、
健康のことなどまったく無頓着だった男が・・・

「家族のために長生きせねば!」などと思うようになったことに
我ながら苦笑いしている今日この頃です。