人の手を借りる時

年寄りと言えばまさに人間の集大成。

その人がどんな考え方や生き方をしてきたのかは、
その人柄を見ればよくわかるものです。

人から好かれて、周りに人が集まるお年寄りもいれば、
逆に嫌われて、いつも孤独なお年寄りも居ます。
 
 
若いうちなら一人でも構わないでしょうし、
煩わしい人間関係などコチラから願い下げだと
おっしゃる方が居ても良いかと思いますが、
 
ただ、次第に体が弱って体力や気力が落ちてきた時、
果たしていつまでもそんな強がりを
言い続けることができるものなのでしょうか?
 
 
今これをご覧いただいてる貴方も
もちろん私自身もあと数年経てば、
自分の意思に関わることなく
誰かの手を借りる時が必ずやって来るのです。
 
 
家族はもちろん、介護師さんや看護師さんたちの
手を借りなければならなくなった時、
 
その手を差し出してくれる相手と
貴方はどんな関係で居たいのか?って
一度考えてみていただきたいのです。
 
 
仕事柄、介護士や看護師の皆さんとよくお会いし、
雑談する機会があるんですが、
 
皆さん仕事としてはプロですから
どんな相手であっても優しく対応なさるものの、
やはり人間ですから「本音」というものがあり、
相手によっては好き嫌いもあるんです。
 
 
皆さんから、こんな言葉を聞いたことがあります。

 
やはり私たちも人間ですから、
お世話する皆さんに対しての感情も色々で・・・

呼ばれては居ないんだけど
「大丈夫かな? 困ってらっしゃらないかな?」って
様子を見に行ってあげようと思う方も居れば、

逆に、できることなら呼ばれない限り
お世話に行きたく無いという苦手な方もいます。

と、苦笑いなさいました。
 
 
どうでしょうか?
貴方がもしお世話になる側になった時には、
どちらの人間になりたいですか・・・?
 
 
 
年配の方を見ていると、
ある共通点があることに気づきます。
 
周りに人が集まる人に見られる特徴は
「素敵な笑顔」と「人の話をよく聞く」人、
加えて「決して人の陰口や悪口を言わない」人です。
 
考えてみれば決して難しいことではないものの、
それを長い年月をかけて積み上げるのは
とても容易いことではありません。
 
 
いつも笑顔を心がけて過ごしてきた人の顔には
「笑皺」が刻まれて、とても優しく素敵であり、
そんな人と一緒にいるだけでこちらも心が癒され、
いつもそばに居たいと思うものです。
 
 
しかし、こういった人は少なく、
多くの年配者の顔はしかめっ面で
口から発せられるのは、常に愚痴や陰口ばかり。
 
おまけに人の話を聴こうともせず、
一方的に自分の苦労話や身内や他人の陰口ばかり。
 
そんな人と一緒に居たいと思うでしょうか?
 
いつもそんな仏頂面や陰口を聞かされるばかりでは、
残念ながら次第に人が離れていくのは当然のこと。
 
 
人の手を借りなければならない時が来るまでに、
できるなら「他人が喜んでお世話してくださる人間」に
自分自身を成長させたいものですね。
 

退職後は地域行事に参加しよう

退職後に何をやりたいのか解らないという男性は
家に引きこもってしまいがちになりますが、
まずは積極的に地域の行事に参加するべきです。

その土地に長く暮らしていたと言えども、
早朝から出勤し、夜遅くまで働いていた男性であれば、

近所の皆さんであっても
互いに顔さえ知らない場合もありますから、
地域行事は近隣の方たちと顔馴染みになる良い機会です。

 

ただし、現役時代にある程度の役職に就いていた方が
退職後に地域の活動などに参加する場合には注意が必要です。

つい現役時代の癖がでてしまい、
まわりの人に対し命令口調や威圧的な態度に
なっていたりすることがあるので、
これだけは意識したいものです。

男性はプライドが高いので
「俺は現役時代には偉かったんだ。
お前らみたいにそんな下らないことなんかできるか!!」
といった態度が無意識に出てしまったりするものです。

昔どんなに偉い役職についていようが、
退職したら皆同じ立場なのですから、
交流の席などでは昔の自慢話をするのではなく、
その経験を地域の活動などに生かしながら、
新しい人間関係づくりをしていくことが大切です。

逆に、女性の場合は現役時代に何をしていたとか
変なプライドを持たない方が多いので、
誰とでも気軽にコミュニケーションが取れて
すぐに打ち解けられるという特性を持っているため、
新しい人間関係をつくるのが上手ですね。

そんなところは、男たちも見習わなければならないものです。

妻たちのストレス

定年を控えた多く男性たちは、
後は趣味や旅行などをして
のんびり過ごしたいと考えていらっしゃるらしいですが、

いざ仕事を辞めてみると現実は全く違っている場合が
多くみられるようです。

解放感にひたっていられるのは最初の数カ月で、
やがて何もすることがない焦りや喪失感に
襲われたりする方が増えています。

仕事一筋で家庭をかえりみず、
地域との交流にはまったく関心を持たなかった
会社人間タイプの男性が退職してしまうと、
老後に大変苦労するのが現実です。

自分の自由時間というものの使い方が分からず、
趣味を持たない方の場合は、何もすることがなく、

仕事以外の人間関係もほとんど持たないため、
やることも無い、会う人も居ないという毎日が続くうちに
急に老け込んでしまう人が居らっしゃいます。

そうなると、当然のことながら
妻に対して、そのしわ寄せが来ることになり、
妻までストレスを抱え込んでしまうのです。

夫が一日中家に居ることによって、
妻が感じるストレスの中でも特に大きいのが、
夫の昼食を作らなければならないことだといいます。

たかが昼食くらいで・・・と男たちは思うのでしょうが、
妻にとっては大きな問題なのですから、
こんなところから夫婦の溝が更に深まってきます。

定年になって自分が家にいる時間が増えれば
妻は喜ぶだろうなどと考えている夫は
とんだ思い違いをしているのです。

子供が手を離れてからの妻というのは、
それまで一日のほとんどを自分のペースで過ごし、
昼食は適当に残り物で済ませていたのですが、

夫が毎日家にいるようになると、
それが出来なくなるのです。

まして「何が食べたいのか」と聞けば
「なんでもいい」と言うくせに・・・
残りものを出せば不機嫌な顔をする。

これは妻にとって大きなストレスであることを、
夫はまず理解しなければなりません。

「夫の昼食を作るたびに離婚を考えてしまいます」
という奥さんのご相談を受ける機会がありましたが、

どうやらこのご婦人だけではないようなので、
世の男たちにとってはかなり深刻な問題だと
自覚する必要があるようです。

定年になれば時間はたっぷりあるのですから、
夫も恥ずかしいなんて思わないで
妻に内緒で料理教室などに通い、
たまには奥さんに代わって
料理を振る舞ってあげたりしてみればいかがでしょう。

いずれにしても、妻が何を求めているのかを察知することが、
退職後における夫婦円満の秘訣のようですね。

命の使い方

人生100年時代の到来と言われるようになりましたが、
厚生労働省の発表では、現在のところ日本の平均寿命は、
男性が約81歳、女性の方は約87歳だそうです。

たとえば65歳で定年退職して85歳まで、
一日10時間何かの活動したとすると、その時間は約7万時間。

これは一般的な人間が大学を卒業後、
就職をしてから定年退職するまでの労働時間と
ほぼ同じものになります。

それがいったい何を意味するのかといえば、
定年後が「余生」と呼ばれるには余りにも長く、
もはや新しい人生の始まりとして
積極的に生きて行く必要があるということなのです。

 

何歳から老年期と捉えるのかは人それぞれですが、
「どのように老いを生きるのか」という問題を、
私たちすべてが真剣に考える必要に迫られていると思います。

 

「私は木を切るのに忙しくて、斧を見る暇がなかった」

一人の実業家が定年後に語ったというこの言葉ですが、
寸暇を惜しんで他人よりも良い木をより速く、
より多く切ることに専念して働いたこの人が、
仕事をやめた時に見たのは、刃がボロボロに欠けた斧でした。

自分の分身とも言える斧を、
何故手を休めていたわってやらなかったかを
悔やんだ言葉ではないでしょうか。

自分をいたわる余裕もなく、
家族のために必死で働いたあげく、
やっと仕事から解放されたにも関わらず、

次に襲いかかって来たのは
「自分は何のために生きて来たのか?」
あるいは「これから何のために生きるのか?」という、
無力感や喪失感に苛まれる方たちもいらっしゃいます。

 

良くも悪くも仕事の中では、
誰でも一つの「歯車」という役割を果たしますが、
仕事から離れて、はじめて集団の中の「歯車」から
本当の一個人としての「自分」に戻ることができるのです。

だからこそこれからの人生は、歯車という部品ではなく、
自分という一人の人間をを必要としてくれる人のために、
命を使っていただきたいものだと願います。

過去

人にはそれぞれに、
「帳消しにしたい過去」の、ひとつやふたつはあるものです。

「そんなものは無い」とおっしゃる素晴らしい方も
中にはいらっしゃるかも知れませんが・・・
私など、その「帳消しにしたい過去」が山ほどあります。

もちろん、犯罪の類いではありませんが 😁

私の30代から40代半ばくらいまでをご存知の方などは、
きっと「アイツはロクな奴じゃない」とおっしゃるでしょうし、
私も否定する気にもならないくらい、
ホントにロクな奴じゃありませんでした 😅

では・・・そんな人間は、過去を背負ったまま
どう未来を生きれば良いのでしょうか?

勝手な言い分ではありますが、
過去の「事実」は変えられなくても
過去の「意味」というものは変えられる筈だと、
私は確信しています。

私たちは大地にしっかりと根を下ろす大木と同じように、
過去という土台の上にしか、未来を築くことはできません。

人生の土台となる「過去」という根に付いた沢山の土を、
汚れたものと捉えるのか・・・それとも、
これから成長するための「腐葉土という養分」と捉えるのかで、

これからの歩み方が変わってくるのではないのでしょうか?

過去の自分を消し去ることに必死であがくより、
過去の経験に対して、あやまちは認めて反省しながら
未来の自分に生かすための努力を積み重ねることが、

自分や周りの皆様のためになる筈だと思いながら、
日々精進しているオヤジです。

色分け

世の中には色んな方が居らっしゃって、
まだ親しく付き合ってもいない内から
相手を勝手に色分けしてしまうという
困った癖を持つ方がいらっしゃいます。

ここで言う「色分け」という意味は、
自分にとって、相手が「敵」か「味方」かという
選別をするということなのですが、

趣味や考え方、そして好みと違うというだけで
自分とは合わないと決めつけ、

更には、自分が嫌う人と交流を持つ人や
嫌いな人が属するグループの人たちまで、
勝手な色分けで「敵」とみなしてしまうという

まさに自己中心的な感覚で
人との出会いに壁をつくってしまう方がいます。

とは言っても、こういう感情というものは
多かれ少なかれ、誰しも持ってはいるものですが、
時折、被害妄想と言っても過言でないほどに
自分の感情に捕われ過ぎている方を目にします。

自分が常に人からどう思われているのか?
ということに固執するあまり、

自分が嫌いであったり苦手な人が、
自分のことを悪く言っているのではないか?

そして、それらの人と交流する人たちまで
同じだと固執してしまうことが、
自分の世界を狭めていることに気付くことが
必要ではないかと思います。

親との接し方

家族と仲が良い人は魅力がありますね。

そして、どこか余裕を感じます。

若い人にイマイチ魅力を感じないのは
まだ家族と仲良く出来る余裕を
感じられないせいなのかも知れません 😁

子供は親をいつか追い越す時が来ますが、
きっと「追い越した」と自分が思った時に
親に対して、そして家族に対して
優しくなれるんじゃないでしょうか?

ある程度の歳をとってからも
まだ親とぶつかってる人が居ます。

そんな方は、まだ親を追い越していないのでしょう。

親に優しくするというのは、
決してマザコンといった類いのものではありません。

親の小言やわがままを優しく聞きながら、
同時に間違っている部分は優しく指摘するくらいの
精神的余裕が持てるようになれば
完全に親離れが出来たということで、

その時は、きっと親の存在がとても有り難く
そして例えようもない愛しさを感じるものです。

どんなに仕事が良く出来ても、
どんなに自分に部下が沢山できたとしても、

自分の親を追い越していない人には
誰も付いて来ないような気がするオヤジです。

納豆で発見しました

冷蔵庫の納豆を取り出して食べようとしたら、
「賞味期限を過ぎてるんじゃないの?」との
家内の言葉にふと見ると・・・
確かに3日前の日付でした。

賞味期限などまったくおかまいなしで、
「一口食べて変だったらヤメりゃいいじゃねえか」
といういい加減な性格なもので、

まして「納豆ってもともと腐ってるものだ」と、
美味しくいただきながら、ふと思ったのでした。

「腐る」のと「発酵させる」とでは
どえらい違いじゃねえか・・・なんてね ^ ^

腐ったものを食べれば害になるけれど、
発酵させたものを食べれば身体に良い。

なるほど・・・これだよ、人生も。

なんて、オッサンは重大発見をしたのです。

いい加減に生きてりゃ、歳をとるにしたがって
自分の意志とは裏腹に、周りに迷惑を掛ける一方。

しかし・・・真剣に生きてりゃ、歳をとっても
少しは周りに良い影響を及ぼすこともできるだろう。

失敗続きの人生だけど、
誰かのために挑戦した失敗なら

きっと「腐った」んじゃなくて
「発酵」しつつあるんだと

勝手な持論をつくりあげながらも、

あらためて納豆に勇気をもらった
アホなオッサンなのでした ^ ^

生きる秘訣

とかく人間は「頑張る」ことが
成功の秘訣だと考えるようですが、

実際には生きる秘訣なんて、

人から「好かれる」謙虚さ・・・

人から「可愛がれる」素直さ・・・

そして「愛される」温かさを備えることで

事足りることではないのかな?

なんて、ふと思ったオヤジです ^ ^

人は二度死ぬ

「人は二度死ぬ」と言われます。

一度目は「肉体」の死であり、

そして二度目の死は、生きている人の脳裏から忘れ去られること。

それは、言い換えれば
誰かが覚えていてくれて、時折でも自分のことが話題に出る間は、
人の心の中で生き続けるということなのかも知れません。

かのマザー・テレサはこう言いました。

「愛の反対は憎しみではなく、無関心です」と

人が一番辛いのは「関心を持たれない」ことであり、
さらに言えば「忘れ去られる」ことなのかも知れません。

できることなら、死んでからも語り継がれるような

そんな人でありたいと思います。