「気」はエネルギー

皆さんは「気」というものをご存知ですか?

神社などにお参りすると、なんとなく清々しく感じ、
ある人にとっては気持ちが落ち着き、
またある人は高揚感を感じることもあるように、

目には見えないものの、
身体が自然に感じ取るエネルギーのようなものです。

気というものは自然界に存在する
すべての物質の基本的な構成単位であり、
エネルギーの源であると捉えられ、

すべての出来事や変化は「気(エネルギー)」が動き、
そして流動することによって現れる現象として
捉えられています。

つまりこの地球を含む
宇宙の中に存在するあらゆる物質や生命体などは、
すべて「気」によって存在し、

それが変化しながら成長していると考えられ、
私達に「気」があるからこそ生きていると言っても
過言ではないのです。

前回にも述べたように、
ものごとには必ず入り口と出口があるのですが、
「気」というエネルギーの流れにも共通するのです。

モノが溢れているお宅の場合、
殆ど例外無く家の中の空気が淀んでいるのですが、

モノを捨てて空間をつくりだすことによって、
空気の流れが発生するとともにエネルギーが生じ、
家の中に「気」が生み出されるのです。

逆に言えば、「気」を生み出す家でなければ
心や身体は正常な働きを阻害されることを
私たちは肝に銘じる必要があると言えます。

モノを捨てて心を豊かに

身の回りの整理を始めた方に共通した感想が、
 
「片付ける作業によってモノが少なくなる一方で、
精神的には逆に豊かになった」という言葉です。

 
モノにはそれを所有する人の意識が宿っており、
家の中にあるモノや、服装などを見れば、
何となくその人の性格や意識というものを
感じることができるのです。

 
過去から現在までに至る
何年も溜め込んだモノの集大成が、
その家が放つ独特の生活感というものであり、
 
それはとりもなおさず、
住む人自身の生活意識そのものと言える筈です。

 
 
いらないモノを捨てていくことは、
残された家族の負担を軽減させる作業であることは
言うまでもありませんが、
 
それ以上に、これから先の自分自身が、
精神的に豊かな日々を送るために
もっとも重要なことなのです。

 
モノに対して執着を持つことは、
過去の自分への執着心に他なりませんから、
捨てる作業は執着心を手放すと同時に
心を解放することにも繋がります。

ものごとには必ず入り口と出口があります。
たとえば、電車やバスなどでは
下りる人が先で乗る人は後であり、
エレベータも誰かが出なければ次の人は乗れません。

 
家であれば、不要なモノを捨てなければ
本当に必要なモノが入るスペースはありませんし、

心も同じであり、執着心をまず捨てなければ
新しい価値観も生まれないのです。

 
 
一見、モノを捨てることで
何かを失ってしまうように思いがちですが、
実は捨てることによって得るものが
思いの外たくさんあることを 
 
私たちはモノを捨てることによって気づくのです。

モノ忘れ

歳をとると「モノ忘れ」をしてしまうのが
ほとんどの方の悩みではないでしょうか?

かく言う私なども、
家内からは「もお!!言ったじゃない!!」と度々叱られ、
人との約束には「あと30分経ったら出掛けよう・・・」
と思っていたにも関わらず、

つい他のことをしてるうちにすっかり忘れてしまい、
遅刻をしてしまう・・・なんて言うような有様で、

「認知症になるかもよ・・・?」なんて笑いながらも
内心では大丈夫かな?って怯えております ^ ^

 
しかし、何とか認知症にならないようにしつつ、
意義ある人生をできるだけ楽しく、
皆さんにも長寿で過ごしていただきたいので、

今回は、認知症につながる危ない物忘れと、
特に気にしなくても良い
単なるモノ忘れの違いについて考えてみました。

 
各地で「モノ忘れドック」など、
モノ忘れの悩みを専門に扱う診療科が増えています。
 
 
東京の、ある「モノ忘れドック」では、
普段どんなモノ忘れをしているのかということを
詳しく問診してから、

特殊な「PET・CT」という検査で脳を撮影し、
画像と照らし合わせながら
認知症の危険度が診断できるといいます。

 
 
モノ忘れには
「覚えていたことを思い出せない」というものと、
「覚えていたことすら忘れて、また同じことを聞く」
という二つのタイプがあるといいます。

 
二階の部屋に何かを取りに来たのに、
いざ部屋に入ったら「何を取りに来たんだっけ?」
などという経験は、殆どの皆さんが思い当たるはず。

また、会話中に人や店などの名前が思い出せず
困ってしまうという体験も多いはずですよね。

 
同じ物忘れの中でも、
単にその場では思い出すことができないんだけど、
ちょっとヒントがあったら出てくるとか、
 
少し時間が経ったら思い出すというタイプの物忘れは
あまり心配する必要はありません。
 
 
記憶はその過程によって三つの段階で構成されています。
 
第一段階は新しく物事を覚える「記銘」
第二段階は覚えた情報を保存しておく「保持」
第三段階が保存した情報を思い出す「想起」です。

そして、先の例であげたタイプの物忘れは、
第三段階の「想起」の能力が衰えた結果であり、
認知症につながる心配は殆どありません。

もちろん脳の機能低下が起きてはいるんですが、
それは誰でも歳とともに起きる現象なので、
特に病的なものではないと言えます。
 
 
一時は忘れてもヒント等があれば思い出すこ とができる、
つまり「想起」が衰えることで起こる物忘れのタイプは
怯えるほど危険なものではないのです。

 
歳をとると、日常で同じことを何度も聞いてしまい、
周囲から指摘されることが続くと、
自分が認知症なのか?と心配になることもありますが、

 
まず自己診断として、
「聞いたこと自体は覚えているけど、忘れてしまった」
という理由で、何度も聞いてしまうという場合は、
前述した、保存した情報を引き出す「想起」の部分が
衰え始めているというタダの老化現象なので、
大げさに心配する必要はありません。

 
しかし、聞いたことや行ったことすら忘れしまい
初めて聞いたり、したような気持ちになってしまうのは、
覚えた情報をしまっておく「保持」の能力が
衰えてしまっている、少し心配な状態であり、

 
お年寄りが、すでにご飯を食べたのに
「ご飯はまだかい?」なんて言い始めたら
ちょっと危険だと言うことなんですね。

実は、覚えた情報を保つ「保持」という機能は、
加齢だけでは低下しない能力なのです。

 
情報を「想起する」・・・
つまり「記憶を引き出す能力が低下する」ことは
老化現象で仕方がないことなのですが、

情報を「保持する」・・・
つまり「記憶する能力自体が低下する」ということが、
認知症につながる危険な物忘れといわれます。

 
 
皆さんもこういったことを理解しながら、
心配の無い物忘れと、認知症の兆候である物忘れとを
しっかりと区別して生活していただきたいと思います。

人の手を借りる時

年寄りと言えばまさに人間の集大成。

その人がどんな考え方や生き方をしてきたのかは、
その人柄を見ればよくわかるものです。

人から好かれて、周りに人が集まるお年寄りもいれば、
逆に嫌われて、いつも孤独なお年寄りも居ます。
 
 
若いうちなら一人でも構わないでしょうし、
煩わしい人間関係などコチラから願い下げだと
おっしゃる方が居ても良いかと思いますが、
 
ただ、次第に体が弱って体力や気力が落ちてきた時、
果たしていつまでもそんな強がりを
言い続けることができるものなのでしょうか?
 
 
今これをご覧いただいてる貴方も
もちろん私自身もあと数年経てば、
自分の意思に関わることなく
誰かの手を借りる時が必ずやって来るのです。
 
 
家族はもちろん、介護師さんや看護師さんたちの
手を借りなければならなくなった時、
 
その手を差し出してくれる相手と
貴方はどんな関係で居たいのか?って
一度考えてみていただきたいのです。
 
 
仕事柄、介護士や看護師の皆さんとよくお会いし、
雑談する機会があるんですが、
 
皆さん仕事としてはプロですから
どんな相手であっても優しく対応なさるものの、
やはり人間ですから「本音」というものがあり、
相手によっては好き嫌いもあるんです。
 
 
皆さんから、こんな言葉を聞いたことがあります。

 
やはり私たちも人間ですから、
お世話する皆さんに対しての感情も色々で・・・

呼ばれては居ないんだけど
「大丈夫かな? 困ってらっしゃらないかな?」って
様子を見に行ってあげようと思う方も居れば、

逆に、できることなら呼ばれない限り
お世話に行きたく無いという苦手な方もいます。

と、苦笑いなさいました。
 
 
どうでしょうか?
貴方がもしお世話になる側になった時には、
どちらの人間になりたいですか・・・?
 
 
 
年配の方を見ていると、
ある共通点があることに気づきます。
 
周りに人が集まる人に見られる特徴は
「素敵な笑顔」と「人の話をよく聞く」人、
加えて「決して人の陰口や悪口を言わない」人です。
 
考えてみれば決して難しいことではないものの、
それを長い年月をかけて積み上げるのは
とても容易いことではありません。
 
 
いつも笑顔を心がけて過ごしてきた人の顔には
「笑皺」が刻まれて、とても優しく素敵であり、
そんな人と一緒にいるだけでこちらも心が癒され、
いつもそばに居たいと思うものです。
 
 
しかし、こういった人は少なく、
多くの年配者の顔はしかめっ面で
口から発せられるのは、常に愚痴や陰口ばかり。
 
おまけに人の話を聴こうともせず、
一方的に自分の苦労話や身内や他人の陰口ばかり。
 
そんな人と一緒に居たいと思うでしょうか?
 
いつもそんな仏頂面や陰口を聞かされるばかりでは、
残念ながら次第に人が離れていくのは当然のこと。
 
 
人の手を借りなければならない時が来るまでに、
できるなら「他人が喜んでお世話してくださる人間」に
自分自身を成長させたいものですね。
 

自分が溜め込んだモノ

自分が死んだ後には、
ほとんどのモノが不要となることが普通です。

仮に子供や孫などが居たとしても、
それぞれが自分の家庭を持っている場合、
家財道具などはすでに揃っているのですから、
彼らに譲るものなど特には無いはずです。

だいいち、今の若者が年寄りの使っていたモノを
欲しがるはずもありませんし、
よほど骨董価値のあるモノでない限り、
すべて廃棄されると思って間違いありません。

自分の死後、引き続き誰かが家に住むのであれば、
当人に「何を残しておくのか」という相談も必要ですが、
誰も住まないという場合は、
かなりの家財道具などの廃棄処分が必要になります。

そういったことを遺族にまかせるということは
手間とお金が掛かる大変な作業となりますので、
できれば自分の手で生前に
少しづつでも処分しておきたいものです。

そして、そのためには
「気力」「体力」「時間」というものが
まだ残っているうちに始めたいのですが、

「どれも残っていない」とおっしゃるならば、
家族などに協力を仰ぐか、もしくは
業者に任せるという方法をとるしかありません。

大きな家具などはさておき、あなたの家の中には
膨大なモノが溢れているだろうと想像します。

そりゃあ数十年かけて溜め込んできたわけですから、
これを整理しようと思えば、
気が遠くなるのは当たり前です。

とは言っても、
残された者がやるのか?、自分がやるのか?という、
ふたつの選択肢しかないのですから、
やれるだけのことは自分で頑張るしかありません。

やはり、自分で溜め込んだモノは自分の手で、
生きている間に片付けておくべく仕事だと思います。

なぜならば、「そのモノ」が家に存在しているのは、
あなたのせいだから・・・。

それらを集めて来たのは、アナタ自身なのですから、
それを他人に片付させるということは
甚だ自分勝手で迷惑なことだとは思いませんか?

もちろん、あなたが亡くなってしまえば、
誰かが「感情抜き」ですべてをゴミ箱に捨てたり
業者に任せて捨てることはできるでしょう。

しかし「何故それがこの家に存在するのか?」という、
あなたの過去の感情とは無関係に、
家に存在していたモノがゴミとして扱われてしまうことは、
とても残念な気がします。

家を整理していると、「あ、これはあの時に買ったんだ」
などと、一つ一つのモノに、昔の思い出が宿っている筈。

そんな思い出のモノとひとつずつ決別していくことこそが、
自分なりの「身終い」に繋がるのでは無いかと思います。

退職後は地域行事に参加しよう

退職後に何をやりたいのか解らないという男性は
家に引きこもってしまいがちになりますが、
まずは積極的に地域の行事に参加するべきです。

その土地に長く暮らしていたと言えども、
早朝から出勤し、夜遅くまで働いていた男性であれば、

近所の皆さんであっても
互いに顔さえ知らない場合もありますから、
地域行事は近隣の方たちと顔馴染みになる良い機会です。

 

ただし、現役時代にある程度の役職に就いていた方が
退職後に地域の活動などに参加する場合には注意が必要です。

つい現役時代の癖がでてしまい、
まわりの人に対し命令口調や威圧的な態度に
なっていたりすることがあるので、
これだけは意識したいものです。

男性はプライドが高いので
「俺は現役時代には偉かったんだ。
お前らみたいにそんな下らないことなんかできるか!!」
といった態度が無意識に出てしまったりするものです。

昔どんなに偉い役職についていようが、
退職したら皆同じ立場なのですから、
交流の席などでは昔の自慢話をするのではなく、
その経験を地域の活動などに生かしながら、
新しい人間関係づくりをしていくことが大切です。

逆に、女性の場合は現役時代に何をしていたとか
変なプライドを持たない方が多いので、
誰とでも気軽にコミュニケーションが取れて
すぐに打ち解けられるという特性を持っているため、
新しい人間関係をつくるのが上手ですね。

そんなところは、男たちも見習わなければならないものです。

妻たちのストレス

定年を控えた多く男性たちは、
後は趣味や旅行などをして
のんびり過ごしたいと考えていらっしゃるらしいですが、

いざ仕事を辞めてみると現実は全く違っている場合が
多くみられるようです。

解放感にひたっていられるのは最初の数カ月で、
やがて何もすることがない焦りや喪失感に
襲われたりする方が増えています。

仕事一筋で家庭をかえりみず、
地域との交流にはまったく関心を持たなかった
会社人間タイプの男性が退職してしまうと、
老後に大変苦労するのが現実です。

自分の自由時間というものの使い方が分からず、
趣味を持たない方の場合は、何もすることがなく、

仕事以外の人間関係もほとんど持たないため、
やることも無い、会う人も居ないという毎日が続くうちに
急に老け込んでしまう人が居らっしゃいます。

そうなると、当然のことながら
妻に対して、そのしわ寄せが来ることになり、
妻までストレスを抱え込んでしまうのです。

夫が一日中家に居ることによって、
妻が感じるストレスの中でも特に大きいのが、
夫の昼食を作らなければならないことだといいます。

たかが昼食くらいで・・・と男たちは思うのでしょうが、
妻にとっては大きな問題なのですから、
こんなところから夫婦の溝が更に深まってきます。

定年になって自分が家にいる時間が増えれば
妻は喜ぶだろうなどと考えている夫は
とんだ思い違いをしているのです。

子供が手を離れてからの妻というのは、
それまで一日のほとんどを自分のペースで過ごし、
昼食は適当に残り物で済ませていたのですが、

夫が毎日家にいるようになると、
それが出来なくなるのです。

まして「何が食べたいのか」と聞けば
「なんでもいい」と言うくせに・・・
残りものを出せば不機嫌な顔をする。

これは妻にとって大きなストレスであることを、
夫はまず理解しなければなりません。

「夫の昼食を作るたびに離婚を考えてしまいます」
という奥さんのご相談を受ける機会がありましたが、

どうやらこのご婦人だけではないようなので、
世の男たちにとってはかなり深刻な問題だと
自覚する必要があるようです。

定年になれば時間はたっぷりあるのですから、
夫も恥ずかしいなんて思わないで
妻に内緒で料理教室などに通い、
たまには奥さんに代わって
料理を振る舞ってあげたりしてみればいかがでしょう。

いずれにしても、妻が何を求めているのかを察知することが、
退職後における夫婦円満の秘訣のようですね。

命の使い方

人生100年時代の到来と言われるようになりましたが、
厚生労働省の発表では、現在のところ日本の平均寿命は、
男性が約81歳、女性の方は約87歳だそうです。

たとえば65歳で定年退職して85歳まで、
一日10時間何かの活動したとすると、その時間は約7万時間。

これは一般的な人間が大学を卒業後、
就職をしてから定年退職するまでの労働時間と
ほぼ同じものになります。

それがいったい何を意味するのかといえば、
定年後が「余生」と呼ばれるには余りにも長く、
もはや新しい人生の始まりとして
積極的に生きて行く必要があるということなのです。

 

何歳から老年期と捉えるのかは人それぞれですが、
「どのように老いを生きるのか」という問題を、
私たちすべてが真剣に考える必要に迫られていると思います。

 

「私は木を切るのに忙しくて、斧を見る暇がなかった」

一人の実業家が定年後に語ったというこの言葉ですが、
寸暇を惜しんで他人よりも良い木をより速く、
より多く切ることに専念して働いたこの人が、
仕事をやめた時に見たのは、刃がボロボロに欠けた斧でした。

自分の分身とも言える斧を、
何故手を休めていたわってやらなかったかを
悔やんだ言葉ではないでしょうか。

自分をいたわる余裕もなく、
家族のために必死で働いたあげく、
やっと仕事から解放されたにも関わらず、

次に襲いかかって来たのは
「自分は何のために生きて来たのか?」
あるいは「これから何のために生きるのか?」という、
無力感や喪失感に苛まれる方たちもいらっしゃいます。

 

良くも悪くも仕事の中では、
誰でも一つの「歯車」という役割を果たしますが、
仕事から離れて、はじめて集団の中の「歯車」から
本当の一個人としての「自分」に戻ることができるのです。

だからこそこれからの人生は、歯車という部品ではなく、
自分という一人の人間をを必要としてくれる人のために、
命を使っていただきたいものだと願います。

過去

人にはそれぞれに、
「帳消しにしたい過去」の、ひとつやふたつはあるものです。

「そんなものは無い」とおっしゃる素晴らしい方も
中にはいらっしゃるかも知れませんが・・・
私など、その「帳消しにしたい過去」が山ほどあります。

もちろん、犯罪の類いではありませんが 😁

私の30代から40代半ばくらいまでをご存知の方などは、
きっと「アイツはロクな奴じゃない」とおっしゃるでしょうし、
私も否定する気にもならないくらい、
ホントにロクな奴じゃありませんでした 😅

では・・・そんな人間は、過去を背負ったまま
どう未来を生きれば良いのでしょうか?

勝手な言い分ではありますが、
過去の「事実」は変えられなくても
過去の「意味」というものは変えられる筈だと、
私は確信しています。

私たちは大地にしっかりと根を下ろす大木と同じように、
過去という土台の上にしか、未来を築くことはできません。

人生の土台となる「過去」という根に付いた沢山の土を、
汚れたものと捉えるのか・・・それとも、
これから成長するための「腐葉土という養分」と捉えるのかで、

これからの歩み方が変わってくるのではないのでしょうか?

過去の自分を消し去ることに必死であがくより、
過去の経験に対して、あやまちは認めて反省しながら
未来の自分に生かすための努力を積み重ねることが、

自分や周りの皆様のためになる筈だと思いながら、
日々精進しているオヤジです。

色分け

世の中には色んな方が居らっしゃって、
まだ親しく付き合ってもいない内から
相手を勝手に色分けしてしまうという
困った癖を持つ方がいらっしゃいます。

ここで言う「色分け」という意味は、
自分にとって、相手が「敵」か「味方」かという
選別をするということなのですが、

趣味や考え方、そして好みと違うというだけで
自分とは合わないと決めつけ、

更には、自分が嫌う人と交流を持つ人や
嫌いな人が属するグループの人たちまで、
勝手な色分けで「敵」とみなしてしまうという

まさに自己中心的な感覚で
人との出会いに壁をつくってしまう方がいます。

とは言っても、こういう感情というものは
多かれ少なかれ、誰しも持ってはいるものですが、
時折、被害妄想と言っても過言でないほどに
自分の感情に捕われ過ぎている方を目にします。

自分が常に人からどう思われているのか?
ということに固執するあまり、

自分が嫌いであったり苦手な人が、
自分のことを悪く言っているのではないか?

そして、それらの人と交流する人たちまで
同じだと固執してしまうことが、
自分の世界を狭めていることに気付くことが
必要ではないかと思います。