最愛の人

作家、水上勉さんについてのエピソードに
こんなお話がありました。

生まれつき足がご不自由だったお嬢さんに、
8歳の時、奥さんの骨盤を削って移植するという
手術をなさったとのことです。

手術の後、まだ麻酔の覚めないあいだ、
酸素マスクのわが子をじっと見守っていると
お嬢さんが誰かの名前を呼んでいるのです。

自分か、もしくは奥さんの名前だろうと
耳を澄まして聞いてみると・・・

なんと、それは自分たちではなく
小さい時から娘に連れ添ってくれていた
お手伝いさんの名前だったのでした。

「愛というものは、なんと厳しいものだろう」と
水上さんは絶句したそうです。

お嬢さんとお手伝いさんの間には、
親が我が身を削っても、なお及ばないほどの
深い「愛」があったに違いない。

深い闇の淵をさまよう娘が、
自分たち両親ではなく、その名前を呼ぶほどに
お手伝いさんは、いったいどれだけの愛情を
我が子に注いでくれたのだろう?

水上さんはお手伝いさんに感謝するとともに、
それ以来、「愛」という言葉を
軽々しく使わなくなったと書いています。

我が子が、もし死の淵において
無意識のうちに誰かの名前を呼ぶとすれば
それはいったい誰なのでしょうか?

それはきっと子供にとって「最愛の人」なのでしょう。

私は果たして名前を呼ばれるに値する愛情を
我が子に注いでいるのだろうか?

これからの課題になりそうな気がした
今朝のオヤジなのでした。

恩送り

私がお付合いさせていただく先輩諸兄は
有り難いことに「男前」の方々ばかりで、

還暦も過ぎたオヤジになったというのに、
いまだに食事などでご一緒した際には
私が奢られる立場になってしまいます。

「たまには奢らせて下さい」とお願いすると、
いつも決まって
「アンタは私じゃなく、下の人たちに奢ってあげなさい」と
言って下さいます。

いつかそんな諸兄に恩返しがしたいものだと
常々思ってはいるのですが、
最近になって、こんな言葉を知りました。

誰かから受けた恩を
その方にお返しするのが「恩返し」ですが、

その恩を第三者に渡していくのを
「恩送り」と言うのだそうです。

誰かからいただいた恩を、次の誰かに送る。

とても美しいことだと感じます。

いただいた恩を、次の誰かにつなぐ時

きっと、自分に下さった方の恩に感謝しながら
渡しているからではないでしょうか。

「恩」を「感謝」に変えて次の世代に送ること。

誰もが心がけるべきことなんだろうと思う
今朝のオヤジです。

何故、終活なのか

テレビや雑誌、そして巷で開催される様々な終活関連のセミナー、
また、インターネット上には情報が溢れており、
今や終活に関する知識は簡単に手に入れることが出来ます。

「終活」というものを皆さんに知っていただくことにおいては
大変素晴らしいことであり、
私もその情報提供者の一員として、
年間100回を超える講演会やらセミナーを通して
全国の皆さんにお伝えしている身ではありながら、

矛盾を承知の上で申し上げるならば、
「終活など本当に必要なのか?」と、思うことがあるのです。

世の中は時代とともに刻々と変化し、
家族のあり方もそれに会わせて様変わりしておりますが、
今年64歳になる私などが幼い頃には
三世代同居の家庭というものは何処にでもある風景でした。

祖父母・父母・子供たちという三世代の人間が
共に生活する家庭においては、終活などという意識すら無く、

順番通りにいけば、お爺ちゃん、お婆ちゃん・・・と、
一人づつこの世を去って行く過程で、
残された家族はその悲しみを受け入れながらも
葬儀から片付け、そして供養までの一連の流れを
代々続けてきたものでした。

子供たちは葬式や火葬、お墓参りなど
親の後ろ姿を見ながら、そして肌で感じながら育ったため、
やがてその役割が自分に回って来た時には、
周囲の助言をいただきながらも
無事に務めを果たして来れたものです。

ところが、時代は変わり
三世代同居など到底不可能といえる時代と、
親世代の価値観も少しずつ変化した現代においては
親子の別居はいつの間にか当たり前の感覚となり、

子供と離れて生活する親にとっては、
「子供たちに迷惑を掛け無いように」と考え、
あるいは、子供を持たない夫婦にとっても
「自分たちの始末は自分たちでやっておかねば」という

ある意味、自分の生き方ばかりか「死に方」を
考えなければならない時代になったことが
終活という「方法論」が生まれた背景ではないのかと思います。

子供に、あるいは家族に迷惑をかけないようにという気持ち、
言葉を変えれば、家族に対する「配慮」や「心遣い」は
ある程度必要なことだと思いますが、

余りにも終活というものこだわりすぎて
何から何まで準備周到な終り方を考えるのは考えものであり、
少しは残った家族に、少しはやることを残しておくのも
配慮の一つかも?なんて思います。

終活で本当に大切なことは、
「家族に迷惑をかけないように・・・」ということよりも、

残された者たちが迷惑だとも思わないような
親子関係や人間関係を築いておくことが
重要ではないのか・・・と、私は思うのです。

罠にはまる

他人の態度や言動が妙に気になったり、
マナーやモラルに対してイライラしたり
怒ったりすることがありませんか?

私の知人には、精神的なことやマナーについて
とても詳しく、厳しい方が沢山いらっしゃいますし、
ひょっとしたら、私もその一人なのかもしれませんが、

「相手の立場になって、言動を慎まなければならない」

「不平不満を口にしてはならない」

「陰口は言ってはならない」

「常に感謝の心を持たなければならない」等々、

そんな「・・・なければならない」の積み重ねが、
きっと、他人への不満に拍車をかけるのでしょう。

ところが、おかしなもので
マナーやらモラルなどを学んだり、

精神世界や自己啓発本などを読めば読むほどに、
なおさら人に対してのイライラがつのるばかりです。

本来、それらの勉強というものは
「人に対して寛容になるため」の学びである筈が、

知らず知らずの内に、巧妙な罠にはまり、
自分が学んだことを、人に強要してしまうといった
間違った方向に向かう危険性があるんですね。

人は完璧になどなれる筈がありませんから、
常に欠点や弱さがつきまとうものです。

だからこそ、学ぶということは
その弱点に「気付く」ことなのだと思うのです。

「知る」ということは自分のためであり、
決して他人を変えるためのものでも
強要するものではない筈です。

他人に対して気になる部分を見る時には、
イライラさせる相手に照準を定めるのではなく、

自分自身の内にある「それを許せない」とする
心の未熟さに気付き、それを「治める」ことが、
本来もっとも必要なことなのではないのか?

なんて・・・

偉そうなことを書きながらも、
自分自身がまだまだ未熟なオヤジです。

大切な人の想い出の中に

60歳を過ぎた頃から
「人生とは、素敵な想い出づくりの日々なのかなぁ?」と、
つくづく思うようになりました。

自分の人生を振り返って、
何の素敵な想い出も残っていないのなら、
かなり虚しいだろうなあ・・・って想像するから、
死ぬまでに沢山のいい想い出を作ろうと思っています。

そして、そう思うようになってみたら
毎日いちばん多くの時間を共にしているカミサンって、
想い出作りのために一番協力してくれてる存在なんだって
妙にありがたく思えてきて・・・

ヨーシ!! 
オレもおまえの最高の想い出づくりに協力してやろう!!なんて、
つまらないことで怒らなくなったんですよね。

いい想い出をつくりたいと願いながら、ふと考えてみたら・・・
想い出づくりとは、誰かの中に自分を残しておくことも、
そのひとつじゃないか?って、最近思うようになりました。

お恥ずかしい話で恐縮ですが、64歳のこの歳で、
六歳になる娘がおります。

20歳離れた家内と、今年小学校へ入学した子供のそばに
あと何年一緒に居てやれることだろう・・・?と思ったら、
家内と子供の素敵な想い出の中に生き続ける自分を
しっかり残してやりたいと思うようになりました。

これまで、冗談で人生を過ごしてきたようなものですから、
「死ぬまで生きてりゃいいじゃねえか」なんて笑いながら、
健康のことなどまったく無頓着だった男が・・・

「家族のために長生きせねば!」などと思うようになったことに
我ながら苦笑いしている今日この頃です。