人の心の中で生き続ける

「人は二度死ぬ」と言われます。

一度目は「肉体」の死であり、

そして二度目の死は、生きている人の脳裏から忘れ去られること。

それは、言い換えれば
誰かが覚えていてくれて、時折でも自分のことが話題に出る間は、
人の心の中で生き続けるということなのかも知れません。

かのマザー・テレサはこう言いました。

「愛の反対は憎しみではなく、無関心です」と

人が一番辛いのは「関心を持たれない」ことであり、
さらに言えば「忘れ去られる」ことなのかも知れません。

できることなら、死んでからも語り継がれるような

そんな人でありたいと思います。

今を大切に

身近に、とても心配性な人が居ます。

「大丈夫だよ、なんとかなるって」と笑っても
まったくムダなようですが、

未来のこと・・・まだ起こってないことを
アレコレと心配したって何も始まりません。

未来のことは未来の自分に任せて、

今すべきことに集中して全力を尽くすことが、
大切なんじゃないのかな?

子供と遊んでると、よく気付かされます。

いつも全力で遊んでるんですよね。

「疲れるから、少し休憩しろよ」

「朝っぱらからそんなに全力出してたら、
今日一日身体がもたないぞぉ♪」

なんて、心配してみても、
そんなことおかまい無しで
転びながら必死で走り廻ってます。

確かに考えてみれば、
子供が明日のことや、自分の体調を考えて
ペース配分をしながら遊んでたら気味が悪い。

明日のことさえ忘れるくらい
今という時間に夢中になり、そして大切にすれば、

未来のことなど、
なんの根拠も無く信じられるような気がします。

今を大切にして楽しむ人を、
未来は応援してくれるんじゃないのか?

なんて思ってしまうオヤジです。

先入観を捨てる

終活だけではなく、ビジネスの世界においても、
提案やアドバイスなどをさせていただく機会が数多くあります。

そんな場合、もっとも難しいのは
私の提案を受け入れてもらうことではなく、

その方の持っている
もともとの先入観を捨ててもらうことなんです。

人間というものは勝手な先入観や思い込みによって
自分自身を縛っていることが殆どですから

端から見ると、何故そんなことに?と
不思議に思うような「こだわり」を持ったり
頑なに「変化」を拒む方がいらっしゃいます。

「変わらない」ということは
ある面においてはとても重要なことですが、

それは「そこに留まる」ことではありません。

たとえば「老舗」と言われるほどに
永い歴史を持つ店がありますが、

その店は、100年・200年ものあいだ
ずっと変化しなかった訳ではないのです。

時代に合わせて少しずつ変化することで、
老舗となって行くのです。

「変わってはならないこと」と
「変わらなければならないこと」

これをしっかり考えなければ
時代の変化に取り残されてしまいます。

「刻々と変化する柔軟なこだわりを持つ」

一見矛盾しているようですが、
常に「変化」と「不変」を併せ持つ
柔軟な心構えと姿勢であることが
本当のこだわりなのだと私は思います。

あなたの持つ先入観や思い込みは
自分にとってそんなに重要なものですか?

それを捨てて、自由になったらどうでしょう。

きっと、あらゆることに
可能性を見いだすことができる筈だと思う今日この頃です。

敵と味方

「敵が多くて本当に困ります・・・」と、
雑談の中で、ある方がおっしゃいました。

確かにおっしゃる通り
敵が多そうな方ではありましたが、
実際のところ「敵」とは
いったい何なのでしょうね。

敵なんて現実には存在しなくて、
心が勝手に作ってるような気もするのですが、
アハハ・・・実は、私も未だ勉強中です。

ただ、この歳になって
やっと、ひとつだけ解ったことはあります。

自分を守ろうとすればするほどに
沢山の敵をつくってしまい・・・

逆に、誰かを守ろうと頑張るほど、
知らず知らずに、味方は増えるもの。

どうやら、それだけは間違いないようです。

夫婦漫才

仕事で近くを通りかかったので、
親しくしている老夫婦を久しぶりに訪ねました。

お二人ともお元気そうで安心しましたが、
80歳を過ぎたご主人は相変わらずの毒舌家で

「アイツは馬鹿でコイツも馬鹿・・・
まったくロクな奴がおらん。
オレならもっと上手くやってやるのに」と、

政治家や役場のお偉いさんたちの話題を
アレコレと持ち出しては、怒り心頭のご様子。

まっ、いつものことなので、
「アハハ・・・困ったものですねぇ♪」と
笑いながら聞いてたんですが、

奥様の方といえば、
これもまた、いつものことで、

お茶を入れて下さいながら
「オジイさん、そんなに人様のことを
悪く言うもんじゃありませんよ」と
ご主人をなだめたり叱りながらも、

やがて

「本当にこんなに偉い人が、
私みたいなものと一緒に居て下さるんだから
なんだか申し訳ないみたいですよねぇ。
ありがたやありがたや」と、手を合わせながら
私に目配せして笑っていらっしゃる。

本来なら、過ぎるほどの毒舌を吐くご主人に対して
それを帳消しにするようにフォローし、
絶妙の合いの手をお入れになる奥さん。

いつもながら、夫婦漫才を見ているような
心地よい感覚を覚えながら、

このご主人が、影で奥さんに支えられてこそ
好き勝手に毒舌が吐けるように、

きっと私も気付かないところで、
家内に支えられるんだろうなぁ・・・と、

あらためて妻というものの有り難さを感じた、
今朝のオヤジなのでした。

信じるということ

「信じていた人に裏切られた」と
先日、知人が愚痴をこぼしにやってきました。

人は、誰かに一度大きな裏切りにあってしまうと
その後遺症から、人を信じることが怖くなってしまいます。

でも・・・信じ続けましょうよ!! と私は思います。

「信じていたのに・・・」と愚痴を言うのはまだ早すぎます。
そして「裏切られた」と思うのは、
ひょっとしたら、勘違いなのかも知れません。

人との関わりにおいては
「信用する」ということと「信じる」ということがありますが、
この二つの似た言葉は、まったく別のものだと私は思います。

「信用する」ということは、相手を評価した結論であるのに対して、
「信じる」ということは、自分の心が決めることであり、
「信じる」ことは、完全が選んだ能動的な結論なのだと思います。

「信用」では、人は損得勘定でしか生きられませんが、
「信じる」ことで、逆境を乗り切って生きることさえできます。

たとえば銀行が、いくら人が頑張ってるからといって
「人を信じて」お金を貸したりしますか? 

銀行に限らず「商売」というものは、所有しているモノに対しての
「信用」という評価によって取引をするだけで、
頑張っているという「心」ではなんの担保にもなりません。

人と人との交わりは、決して商売ではありません。

あなたが「信じていたのに・・・」と言うならば、
私はこう言いたいんですよ。

「本当になんの見返りなど求めず、相手を心の底から信じていたの?」

もし「はい」と答えられるほどの人に裏切られたのなら、
許してあげることだって、きっと出来るような気がします ^ ^

人は「誰かに心から信じられている」と知った時、
裏切ることなど決してできない生き物だと、私は思います。

それでも裏切る結果を出さなければならなくなった相手は、
きっと、あなた以上に後悔しているはずだと思うから・・・

「もういいから、苦しまないで下さいね」と言ってあげましょうよ

そしたら、二人ともきっと幸せになれると思います。

知識が知恵になるように

最近知り合った、87歳のおじいちゃんが居らっしゃいます。

いつもまわりの方に感謝の言葉を投げかけながら、
「おかげさまで・・・ 」と言いながら、
いつもニコニコと笑顔が絶えません。

昨日も近くを通りがかったついでに声をかけ、
少しお邪魔してお茶をいただきながら、
あれやこれやとお話をしましたが、

「アンタみたいに勉強しとらんから、
わたしゃ、な~んも知らんがね」と笑いながらも

私がこれまで何年も掛けて懸命に学んできたことを
いとも容易く、簡単な言葉に置き換えられるたびに

参ったなぁ・・・そんな簡単なことを
オレは今まで偉そうに語ってたのか・・・。と

お会いするたびに、いつも自分の愚かさに気付かされます。

これからもきっと本を読んだり
人の言葉を聞きながら学び続けようと思いますが、

知識として溜め込んでる内はダメだ・・・
年寄りの知恵となるまでに高めなくては、と

あらためて肝に銘じるオヤジなのでした。

良い話と悪い話

家内が仕事中に顔を出し、
「ちょっと話ができる?」と言ったんです。

「どうした? ややこしい話か?」と尋ねると、
「いい話と、悪い話があるんだけど・・・」というものだから。

急ぎの仕事をしている最中だったので
「今、忙しいから片方だけ頼むワ」と答えると

「ふ~ん・・・どっちから訊きたい?」と彼女は笑ったんです。

どちらも結果的には、どうでも良い内容の話だったんですが、

さて、みなさんは「良い話と悪い話・・・
どっちから訊きたい?」と尋ねられたら、
どちらからお訊きになるのでしょう?

私の場合は「悪い話」から聞いたんですけどね。

そういえば、以前こんな笑い話を読みました。

仕事ばかりで自分をかまってくれない妻が、
ある時、夫にこう切り出しました。

「良い話と悪い話があるんだけど、どっちを訊きたい?」

「忙しいことは知ってるだろう、
つまらないこと訊かずに早く話せよ」と夫が言うと

「私、もうあなたにはついていけないから
別れることに決めたの」と、妻は言ったんです。

夫はしばらくの沈黙のあと、

「・・・・そうか、分かった。
・・・・で、悪い話の方はなんなんだ?」

と尋ねたそうです。

老後の人間関係

久しぶりに知人と酒を交わしました。

年上ではあるものの、仕事の関係で親しくなり
プライベートでもお付き合いをさせていただく方で、

一昨年職場を退職されたため
会う機会がまったく無くなったものですから、
「どうしてる?」とこちらから連絡したら、
待ってましたとばかりに会うことになったのでした。

退職後は悠々自適な生活で、
楽しい毎日を送っていらっしゃるものと
私は想像しておりましたが、

ご本人がおっしゃるには
「確かに自由時間があるんだけど、
逆に、することが無くて毎日退屈している」とのこと。

そういえば、現役の頃の颯爽とした容貌が
「老けられたなぁ」と感じるほどに変わっていました。

正月の話題になった際、
「いかに自分が仕事人間だったかを痛感しています」と
ふと、ため息まじりにおっしゃいました。

退職後自宅に届く、自分宛の年賀状はほとんど無く、
妻や子供宛の年賀状ばかり。

毎年会社に大量に届いていた多くの年賀状も
今や自分宛に来る筈も無く、

いかに個人としての人間関係を築いていなかったのかと
今更ながらに気づいたとのことでした。

会社という組織の中でバリバリと働き、
高い地位に就いていらっしゃった方ほど、
退職後の人間関係に落胆なさることが多いのだろうと
あらためて気づきました。

しかし、私は思うのです。

子供時代から学生時代という非社会人の頃の友人は
損得勘定を含まない人間関係であり、
生涯の友としての関係を保ち続けられるものだとすれば、

社会人になり、仕事においての人間関係では、
損得関係や義理が絡むのは致し方ないものです。

だからこそ、退職したあとは
もう一度、損得関係抜きの人間関係を築くことが出来る
素晴らしいチャンスではないかと思うのです。

残された人生の中で、
新たに「死ぬまで付き合える友人」を何人作れるのか?

そんなことを老後の目標のひとつに掲げることも、
素敵な人生の楽しみ方ではないのかと
ふと思ったオヤジなのでした。

美しく老いる

細かい文字が次第に読みにくくなり、顔に頭に
しわや白髪が目立ち始める。
そして、様々な場面で身体の衰えを感じ始めるのが
「初老期」というものです。

この時期は「思秋期」とも呼ばれており
人によって様々ですが、
早い人では四十代から感じ始めます。

「思春期」が、大人になるために
心や体が大きく変化する時期であり、
それにどう対処し乗り越えて行けば良いのか思い悩みながらも、
誰もが通らなければならない苦しい戦いの時であるように、
「思秋期」もまた人生の大きな転機であり、
また戦いの時なのです。

これまでしていたことが次第に出来なくなり、
物忘れが激しくなるとともに
新しいことがなかなか覚えられないことなどから、
不安やあせりを感じ始めます。

何度も同じことを聞くことをためらい、
もう歳だからダメだと諦めることから、
自分の世界をどんどん狭くしてしまうものですが、
むしろ「今は新しいことを覚えるのに三倍の時間が必要だ」
と認めてしまえば済むことなのです。

また、この時期は「ウツ状態」になりやすい時で、
ウツは喪失感からやってきます。

この時期は自分が人生の新しい局面に向かう時でもあり、
あらゆる意味でウツになる要素を兼ね備えた時であり、
誰でも不安になるのはむしろ当然ですから、
こんなはずはないと否定するのではなく、

そういう年代になったのだと正しく受け止めることで、
それほどひどく落ち込まなくても済むのですが、
真面目でこれまでバリバリとなんでもこなしていた人ほど
陥りやすいものです。

やがて私達は更に年を重ね、
「老年期」という時期を迎えます。

どうにも頑張りが効かなくなり、
否応なしに自分の体の衰弱を認めざるを得ない時です。

そしてついには「老衰期」を迎え、
この地上での生涯を終えるのです。

ある婦人が年をとり、
やがてボケの症状も加わって言葉を失っていきました。

しかし、最後まで忘れなかったのは・・・

「まあステキ!」「ありがとう」「良かったね」という、
たった三つの美しい言葉だったのです。

あなたの最後には、
いったいどんな言葉が残るのでしょうか。

それぞれの時をふさわしく生き、
美しく老いていきたいものです。