先入観を捨てる

終活だけではなく、ビジネスの世界においても、
提案やアドバイスなどをさせていただく機会が数多くあります。

そんな場合、もっとも難しいのは
私の提案を受け入れてもらうことではなく、

その方の持っている
もともとの先入観を捨ててもらうことなんです。

人間というものは勝手な先入観や思い込みによって
自分自身を縛っていることが殆どですから

端から見ると、何故そんなことに?と
不思議に思うような「こだわり」を持ったり
頑なに「変化」を拒む方がいらっしゃいます。

「変わらない」ということは
ある面においてはとても重要なことですが、

それは「そこに留まる」ことではありません。

たとえば「老舗」と言われるほどに
永い歴史を持つ店がありますが、

その店は、100年・200年ものあいだ
ずっと変化しなかった訳ではないのです。

時代に合わせて少しずつ変化することで、
老舗となって行くのです。

「変わってはならないこと」と
「変わらなければならないこと」

これをしっかり考えなければ
時代の変化に取り残されてしまいます。

「刻々と変化する柔軟なこだわりを持つ」

一見矛盾しているようですが、
常に「変化」と「不変」を併せ持つ
柔軟な心構えと姿勢であることが
本当のこだわりなのだと私は思います。

あなたの持つ先入観や思い込みは
自分にとってそんなに重要なものですか?

それを捨てて、自由になったらどうでしょう。

きっと、あらゆることに
可能性を見いだすことができる筈だと思う今日この頃です。

敵と味方

「敵が多くて本当に困ります・・・」と、
雑談の中で、ある方がおっしゃいました。

確かにおっしゃる通り
敵が多そうな方ではありましたが、
実際のところ「敵」とは
いったい何なのでしょうね。

敵なんて現実には存在しなくて、
心が勝手に作ってるような気もするのですが、
アハハ・・・実は、私も未だ勉強中です。

ただ、この歳になって
やっと、ひとつだけ解ったことはあります。

自分を守ろうとすればするほどに
沢山の敵をつくってしまい・・・

逆に、誰かを守ろうと頑張るほど、
知らず知らずに、味方は増えるもの。

どうやら、それだけは間違いないようです。

美しい身終いとは

現代社会において、宗教離れはどんどん加速しています。

宗教離れというよりは「信仰」というものが、
急速に薄れて行っていると言ってもいいでしょう。

その原因は何なのか?といえば、
家族の形態が時代とともに
変わって来たせいではないかと思います。

昔、といっても、たった20年30年前には
三世代同居というものが何処の家庭でも一般的でした。

毎日食事の前には仏壇や神棚に、
ご飯やお水をお供えしてから食事をいただいたもので、
私などもよく母親から「これ仏さんにお供えしてちょうだい」と、お手伝いをさせられたものでした。

こうして仏様や神様にお供えして手を合わせること、
そして家族揃ってお墓参りをすることで、
日常生活の中で、自然と「信仰心」というものが
当たり前のように育まれて行ったんです。

ところが、子供たちは今や都市部で生活したり、
親と同じ地域に暮らしていたとしても
それぞれ別の家庭で暮らすという生活形態から、
これまで代々引き継がれて来た神様や仏様に対する
「畏敬の念」というものが失われて行ったんです。

私どもは「終活」という言葉を
「美しい身終い」と呼んでいます。

「身終い」という言葉は辞書で引かれても無い
私どもが勝手に作った造語なんですが、
通常皆さんがご存知の「身支度」という言葉と
同じニュアンスだと思って下さい。

私たちが普段の生活の中で使う言葉では、
「身支度」というよりも「着替える」という言葉を使います。

外へ出掛ける時、買い物や遊びに出掛けたりする時、
そして仕事に出掛ける時など、
私たちは家着から外出用の服に着替えるんですが、

そんなシーンでは、どちらかと言えば
「着替える」という言葉が適当なんです。

ところが、結婚式そしてお葬式に参列する時はどうでしょう?

そんな場合は「着替える」というよりは
「身支度を整える」と言った方が適当な気がしませんか?

では、なぜ「着替える」ではなく
「身支度を整える」と言う方がふさわしいんでしょうか?

それは、お祝い事、そしてお葬式というものには、
神様・仏様がそこにいらっしゃるからです。

結婚式は神様に新郎新婦が永久に添い遂げるという約束を
神様の前で誓う儀式です。
そして、お葬式は亡くなった方をお見送りする儀式です。

私たちは神様、そして仏様という、
私たちに見えない存在の大いなる存在の前に立つ時には
その大きな存在に対する畏敬の念から、
きちんと身を正して相対する覚悟をするんです。

だからこそ、単に外出するための着替えではなく、
「身支度」というものを整えるんです。

私どもの「美しい身終い」とは、
私たちの目に見えない世界に導かれるために
常に心の準備をしながら、

いつお迎えに来ていただいてもいいように
ジタバタせず「ハイ、お待ちしておりました」と
言えるための心構えをしていただきたいとの願いから

「身終い」と呼んでいるんです。

夫婦漫才

仕事で近くを通りかかったので、
親しくしている老夫婦を久しぶりに訪ねました。

お二人ともお元気そうで安心しましたが、
80歳を過ぎたご主人は相変わらずの毒舌家で

「アイツは馬鹿でコイツも馬鹿・・・
まったくロクな奴がおらん。
オレならもっと上手くやってやるのに」と、

政治家や役場のお偉いさんたちの話題を
アレコレと持ち出しては、怒り心頭のご様子。

まっ、いつものことなので、
「アハハ・・・困ったものですねぇ♪」と
笑いながら聞いてたんですが、

奥様の方といえば、
これもまた、いつものことで、

お茶を入れて下さいながら
「オジイさん、そんなに人様のことを
悪く言うもんじゃありませんよ」と
ご主人をなだめたり叱りながらも、

やがて

「本当にこんなに偉い人が、
私みたいなものと一緒に居て下さるんだから
なんだか申し訳ないみたいですよねぇ。
ありがたやありがたや」と、手を合わせながら
私に目配せして笑っていらっしゃる。

本来なら、過ぎるほどの毒舌を吐くご主人に対して
それを帳消しにするようにフォローし、
絶妙の合いの手をお入れになる奥さん。

いつもながら、夫婦漫才を見ているような
心地よい感覚を覚えながら、

このご主人が、影で奥さんに支えられてこそ
好き勝手に毒舌が吐けるように、

きっと私も気付かないところで、
家内に支えられるんだろうなぁ・・・と、

あらためて妻というものの有り難さを感じた、
今朝のオヤジなのでした。

信じるということ

「信じていた人に裏切られた」と
先日、知人が愚痴をこぼしにやってきました。

人は、誰かに一度大きな裏切りにあってしまうと
その後遺症から、人を信じることが怖くなってしまいます。

でも・・・信じ続けましょうよ!! と私は思います。

「信じていたのに・・・」と愚痴を言うのはまだ早すぎます。
そして「裏切られた」と思うのは、
ひょっとしたら、勘違いなのかも知れません。

人との関わりにおいては
「信用する」ということと「信じる」ということがありますが、
この二つの似た言葉は、まったく別のものだと私は思います。

「信用する」ということは、相手を評価した結論であるのに対して、
「信じる」ということは、自分の心が決めることであり、
「信じる」ことは、完全が選んだ能動的な結論なのだと思います。

「信用」では、人は損得勘定でしか生きられませんが、
「信じる」ことで、逆境を乗り切って生きることさえできます。

たとえば銀行が、いくら人が頑張ってるからといって
「人を信じて」お金を貸したりしますか? 

銀行に限らず「商売」というものは、所有しているモノに対しての
「信用」という評価によって取引をするだけで、
頑張っているという「心」ではなんの担保にもなりません。

人と人との交わりは、決して商売ではありません。

あなたが「信じていたのに・・・」と言うならば、
私はこう言いたいんですよ。

「本当になんの見返りなど求めず、相手を心の底から信じていたの?」

もし「はい」と答えられるほどの人に裏切られたのなら、
許してあげることだって、きっと出来るような気がします ^ ^

人は「誰かに心から信じられている」と知った時、
裏切ることなど決してできない生き物だと、私は思います。

それでも裏切る結果を出さなければならなくなった相手は、
きっと、あなた以上に後悔しているはずだと思うから・・・

「もういいから、苦しまないで下さいね」と言ってあげましょうよ

そしたら、二人ともきっと幸せになれると思います。

知識が知恵になるように

最近知り合った、87歳のおじいちゃんが居らっしゃいます。

いつもまわりの方に感謝の言葉を投げかけながら、
「おかげさまで・・・ 」と言いながら、
いつもニコニコと笑顔が絶えません。

昨日も近くを通りがかったついでに声をかけ、
少しお邪魔してお茶をいただきながら、
あれやこれやとお話をしましたが、

「アンタみたいに勉強しとらんから、
わたしゃ、な~んも知らんがね」と笑いながらも

私がこれまで何年も掛けて懸命に学んできたことを
いとも容易く、簡単な言葉に置き換えられるたびに

参ったなぁ・・・そんな簡単なことを
オレは今まで偉そうに語ってたのか・・・。と

お会いするたびに、いつも自分の愚かさに気付かされます。

これからもきっと本を読んだり
人の言葉を聞きながら学び続けようと思いますが、

知識として溜め込んでる内はダメだ・・・
年寄りの知恵となるまでに高めなくては、と

あらためて肝に銘じるオヤジなのでした。

良い話と悪い話

家内が仕事中に顔を出し、
「ちょっと話ができる?」と言ったんです。

「どうした? ややこしい話か?」と尋ねると、
「いい話と、悪い話があるんだけど・・・」というものだから。

急ぎの仕事をしている最中だったので
「今、忙しいから片方だけ頼むワ」と答えると

「ふ~ん・・・どっちから訊きたい?」と彼女は笑ったんです。

どちらも結果的には、どうでも良い内容の話だったんですが、

さて、みなさんは「良い話と悪い話・・・
どっちから訊きたい?」と尋ねられたら、
どちらからお訊きになるのでしょう?

私の場合は「悪い話」から聞いたんですけどね。

そういえば、以前こんな笑い話を読みました。

仕事ばかりで自分をかまってくれない妻が、
ある時、夫にこう切り出しました。

「良い話と悪い話があるんだけど、どっちを訊きたい?」

「忙しいことは知ってるだろう、
つまらないこと訊かずに早く話せよ」と夫が言うと

「私、もうあなたにはついていけないから
別れることに決めたの」と、妻は言ったんです。

夫はしばらくの沈黙のあと、

「・・・・そうか、分かった。
・・・・で、悪い話の方はなんなんだ?」

と尋ねたそうです。

子供の居ない夫婦の相続

お子さんがいないご夫婦の相続は、
意外な親族が相続人となる可能性があります。

それで納得できるのであれば何も問題はありませんが、
せっかく夫婦で築いた財産ですから、全てを配偶者に残したい。
もしくは、恩人などの第三者に譲りたいと考えることも、
決して悪いことではないと思います。

では、遺産相続させたい伴侶や第三者など、
譲りたい相手にちゃんと渡すためには、どうすれば良いでしょうか。

それは、適正な遺言書を残しておくことです。

これは子どもがいる、いないに関わらず、
円滑な相続のためにはとても大切なことですが、
子どもがいない夫婦の場合はより重要度が高いことなのです。

ある子供の居ない友人からこんな質問を受けたことがあります。

「遺言書に『遺産はすべて家内に譲る』」と書いておけば
間違いない訳だよな」という質問でした。

少しややこしい話になりますが、
遺産相続には「遺留分」という制度があります。

これは、法定相続人となる権利を持つ人間が、
本来分配されるはずの遺産を不当に得られない場合に、
「遺留分減殺請求」ということをすれば
本来得られる相続分の半分は保証されるという権利です。

例えば父母と子供二人の家庭において、
子供の一人が放蕩息子で親に迷惑を掛け続けたため、
父親がその子には遺産をやらない旨を
遺言書に書いて亡くなった場合、
母親ともう一人の子供だけが相続することになるのですが、

その放蕩息子が「遺留分減殺請求」をすれば、
本来貰う筈の遺産額の半分は保証されるという制度なのです。

ですから、先ほどの友人の話に戻れば、
例え遺言書に「家内に遺産はすべて譲る」と書いたとしても、
子供の次に法定相続順位に当たる、自分の親が居た場合には
必ず奥さんに相続分が全額行くとは限らないのです。

何故かというと、彼の父母がそれに対して不満を感じ、
遺留分減殺請求をした場合には、父母の権利である相続分
3分の1の半分である6分の1を
奥さんは父母に渡さなければならないのです。

ただ友人の場合、ご両親はすでに他界なさっているので、
実際には彼の兄弟が法定相続人となるのですが、
兄弟姉妹にはこの遺留分減殺請求権がありませんから、
私の友人の場合、彼が遺言書を書いておけば
兄弟姉妹から遺留分の請求はできませんから
すべての財産は確実に伴侶に残せるのです。

以上のように、法定相続人というのが誰になるのか?
また、それらが遺留分請求が可能な者なのか?など、
条件はそれぞれ異なってくるとは思いますが、

いずれにしても、遺言書を作成するということは
話し合っておくべきだと感じます。

老後の人間関係

久しぶりに知人と酒を交わしました。

年上ではあるものの、仕事の関係で親しくなり
プライベートでもお付き合いをさせていただく方で、

一昨年職場を退職されたため
会う機会がまったく無くなったものですから、
「どうしてる?」とこちらから連絡したら、
待ってましたとばかりに会うことになったのでした。

退職後は悠々自適な生活で、
楽しい毎日を送っていらっしゃるものと
私は想像しておりましたが、

ご本人がおっしゃるには
「確かに自由時間があるんだけど、
逆に、することが無くて毎日退屈している」とのこと。

そういえば、現役の頃の颯爽とした容貌が
「老けられたなぁ」と感じるほどに変わっていました。

正月の話題になった際、
「いかに自分が仕事人間だったかを痛感しています」と
ふと、ため息まじりにおっしゃいました。

退職後自宅に届く、自分宛の年賀状はほとんど無く、
妻や子供宛の年賀状ばかり。

毎年会社に大量に届いていた多くの年賀状も
今や自分宛に来る筈も無く、

いかに個人としての人間関係を築いていなかったのかと
今更ながらに気づいたとのことでした。

会社という組織の中でバリバリと働き、
高い地位に就いていらっしゃった方ほど、
退職後の人間関係に落胆なさることが多いのだろうと
あらためて気づきました。

しかし、私は思うのです。

子供時代から学生時代という非社会人の頃の友人は
損得勘定を含まない人間関係であり、
生涯の友としての関係を保ち続けられるものだとすれば、

社会人になり、仕事においての人間関係では、
損得関係や義理が絡むのは致し方ないものです。

だからこそ、退職したあとは
もう一度、損得関係抜きの人間関係を築くことが出来る
素晴らしいチャンスではないかと思うのです。

残された人生の中で、
新たに「死ぬまで付き合える友人」を何人作れるのか?

そんなことを老後の目標のひとつに掲げることも、
素敵な人生の楽しみ方ではないのかと
ふと思ったオヤジなのでした。

美しく老いる

細かい文字が次第に読みにくくなり、顔に頭に
しわや白髪が目立ち始める。
そして、様々な場面で身体の衰えを感じ始めるのが
「初老期」というものです。

この時期は「思秋期」とも呼ばれており
人によって様々ですが、
早い人では四十代から感じ始めます。

「思春期」が、大人になるために
心や体が大きく変化する時期であり、
それにどう対処し乗り越えて行けば良いのか思い悩みながらも、
誰もが通らなければならない苦しい戦いの時であるように、
「思秋期」もまた人生の大きな転機であり、
また戦いの時なのです。

これまでしていたことが次第に出来なくなり、
物忘れが激しくなるとともに
新しいことがなかなか覚えられないことなどから、
不安やあせりを感じ始めます。

何度も同じことを聞くことをためらい、
もう歳だからダメだと諦めることから、
自分の世界をどんどん狭くしてしまうものですが、
むしろ「今は新しいことを覚えるのに三倍の時間が必要だ」
と認めてしまえば済むことなのです。

また、この時期は「ウツ状態」になりやすい時で、
ウツは喪失感からやってきます。

この時期は自分が人生の新しい局面に向かう時でもあり、
あらゆる意味でウツになる要素を兼ね備えた時であり、
誰でも不安になるのはむしろ当然ですから、
こんなはずはないと否定するのではなく、

そういう年代になったのだと正しく受け止めることで、
それほどひどく落ち込まなくても済むのですが、
真面目でこれまでバリバリとなんでもこなしていた人ほど
陥りやすいものです。

やがて私達は更に年を重ね、
「老年期」という時期を迎えます。

どうにも頑張りが効かなくなり、
否応なしに自分の体の衰弱を認めざるを得ない時です。

そしてついには「老衰期」を迎え、
この地上での生涯を終えるのです。

ある婦人が年をとり、
やがてボケの症状も加わって言葉を失っていきました。

しかし、最後まで忘れなかったのは・・・

「まあステキ!」「ありがとう」「良かったね」という、
たった三つの美しい言葉だったのです。

あなたの最後には、
いったいどんな言葉が残るのでしょうか。

それぞれの時をふさわしく生き、
美しく老いていきたいものです。